日記

子供どころか結婚する予定もない以上、私が生きた事実を記憶する次世代の人間は生まれてきようがない。猫は私のことを覚えていてくれても、私より先に死んでしまうのは確実だし、元より彼らは記憶を次世代に語りかけることはしないのだ。それに去勢してるし子孫も残せない。

となれば、自分の記憶は自分で記録していくしかない。誰かが読むことを期待すると言うわけではなくて、確かに自分は生きてきたのだと実感するためのツールとして、だ。

 

子供というのは、自分の身を分けた半身のようなものであり、そして自分自身を写す鏡でもある。

子供の仕草、喋り方、言葉遣い、考え方、感じ方、好き嫌いから癖まで、親は子供のあらゆるところに自分の姿を見る。子育てとは、自分の生きた証を子供に刻み付けるようなものなのかもしれない。

もちろん、子供は親と全く同じにはならない。よく似た特徴を持っている可能性は高いが、外見が似ていなかったりするし、中身にしても、いずれ独自の思考によって独自の価値観を手に入れる。そうでなくては意味がない。コピーを作るなら単性生殖で十分だ。でたらめでランダムな交配は多様性を生み、その中で環境に最も適応したものが繁栄する。自分の一部を反映しながら、しかし独立した全くの別人。それが子供だと思う。異なるからこそ反映されている自分がよくわかるのだろうし、似ていて嬉しくなるのも、何もそんなところまでになくても良いだろうにとがっかりするのも、あまりに似ていて同族嫌悪するのも、それは「別人」だからこそというものだろう。

そんな別人の中に自分自身が感じられるのなら、それは自分が確かに生きてきたのだと実感する、強力な証なのではないだろうか。しかも、子供は親という人間を記憶し、それを次世代に語り継ぐこともできる。

大きくなった子供と一緒に、「こんなこともあったね」と昔の思い出を語る行為というのは、「その頃はお前もあんなに小さかったのに、よくぞここまで育てたものだ」という満足感を喚起させるのだろうなと、この歳になって想像することができるようになった。子供にとっては恥ずかしい思い出もあって、昔の話なんだからそんなこと言わなくても良いのに、と思うのは思春期では常だったが、あれは別に馬鹿にしたいわけではなくて(いやもちろんそういう場合もあるだろうが)、よくぞここまでになった、という思いもあるだろう。そういう親心は親になって初めてわかるものだと思っていたが、人間の想像力も捨てたものじゃない。親にならなくても、今ならわかる。まあ、子猫を育てた経験が大きく影響しているのは間違いないが、本当に親になったわけではないのだ。

 

で、だ。親の心がわかっても、私は親ではないし、親になることもないだろう。なので、こうして考えたことや思ったこと、感じたことや経験したことを書き残しておいて、あとで読み返して(残らないかも知れないが。デジタルコンテンツは結構簡単に消える)、馬鹿なことを考えていたものだ、あの頃は若かったのだなあと、しかしそんな若さを思い出して微笑むような楽しみを残すことにしようと思ったのだった。思い出を語る相手?壁です。