アスペル・カノジョ 感想

現在、コミックDAYSにて連載中のアスペル・カノジョについて。

 

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がきやの関東進出を熱烈に推している事で知られる「グレイメルカ」などのフリーゲーム作者として知られる、萩本創八氏によって公開されていたWEB漫画が原作。

 

私が出会ったのは原作で、Twitterで話題になっていたものの、タイトルから重い内容を想像して避けていて、結局気になってしかたがなくなって読んだらドハマリした、という作品。当時公開されていた最新話「憂鬱の日(後編)」まで一気に読んで(読んでいる間に最新話が更新された)、ほとんど毎日更新される話を読み続けて、私が生きる上で感じてきたつらさ、それを生じさせている自分と、その自分を責め続ける自分自身を、その醜いと思いつつやめられなかった生き方を、認めてもらった気がした。そうやって生きている私を、上辺だけでではなく本当に否定しないでいてくれる人が、現実にいるのだと教えてくれた、と感じた。

私の周囲にいる人間が誰も私を理解しようとしなかったわけではないし、共感してくれなかったわけでもない。「そんなに自分を否定することはないんだよ」とよく言われた。否定してはいけないのか。否定しながら生きていてはいけないのか。なら、いま生きている自分は生きてはいけないのだろうか。どんな自分になったら良いというのだろう。分かっている。ナイーブな考え方だ。今の私はもう少し前向きで、自分を否定しながら生きることが悪いことだとは思っていない。それはそれでひとつの考え方であり生き方だ。

話がそれた。それてもいいからとにかく書かなければ完成しないと思って書いているのでこれはこれでいい。とにかく話はそれるし、まとまりもないけれど、私は書きたくてこの感想を書いている。この感想を読んで「アスペル・カノジョ」を読みたくなったという人はいないかもしれないが、私はここに作品への思いと感謝を記しておきたい。だから、書く。

 

そう、「否定しながら生きていく」ことを、この作品に許容されたと思ったのだった。過去に苦しむことも、その過去を否定することも、過去を忘れられないことも、過去の過ちを繰り返して消えてなくなりたくなってしまうことも、今の自分が誰もが簡単にこなせることをできないことも、集団に馴染めず上手くコミュニケーションが取れないことも、伝えたいことを上手く伝えられずに何を言っているのか分からないと言われることも、どうして自分には当たり前ができないのだろうと悩むことも、全部。

でも、生きる苦しみは本物で、それに耐えるのはつらい。そのつらさは作品を読んだだけで全て解決されるわけではなかった。自分にはできる、という自信が必要なのだ。

そういったものは私にはなかったし、これからも身につけるのは難しいと思った。何しろ誰もができることができないのである。

アスペル・カノジョを読んで発達障害に興味を持ったこともあって、いろいろ調べるうちに自分が悩んでいることは大人のADHDといわれ、初めて社会に出てから上手く適合できずに気がつくことが多いということを知った。多くの症状が当てはまった。病院に行き、検査を受け、診断がおりた。処方されたコンサータはまるで麻薬か何かではないかと思うほど集中力が続く薬で、しかし反動も大きく、仕事を終えればぐったりとした。

しかし、この変化は劇的なものだった。できなかったことが、できる。できるのだ。もちろん全てがうまくいくようになったわけではないが、7割8割だめだと思ってたことが4割とか3割に減ったらそれはもうものすごいことなのだ。私にとっては。

チームが変わり違う仕事を始めたこともあって、私の仕事は回り始めた。配属されたチームにいた人間が優秀だったのは幸運中の幸運で、彼のマネジメント能力は凄まじかった。適材適所、自分の能力を発揮できる状態になった私は、自分にはこんなにできることがあったのか、と自分で驚いた。薬の効果もものすごいが、マッチングの効果もものすごい。ハマれば強くなれるのだ。私がハマれるのは読書かゲームくらいだと思っていた。ハメたことはないしこれからもないだろうが。

 

また話がそれたが、要するに、それだけ劇的な変化をもたらすきっかけになったのが、「アスペル・カノジョ」という作品なのである。

感情移入のあまりに引きずられ、私自身が精神的にやられてしまうこともあったが、それこそ私が経験してきた苦しみが描かれているからだ。それまで、これほど自分の苦しみを共有する経験はなかった。創作物は消費者が一方的に感情移入するものであり、作品内の登場人物や作者と感情や経験を共有する(共有とは双方向性があるものだ)ことは、まずない。感想をTwitterでつぶやいたりすれば、作者からリプライが飛んでくるかもしれないが、作品を鑑賞し、感情移入しているその場で共有することはできない。だが、この作品は、この作品を書いた人は、間違いなく、ここに描かれている苦しみを知っている。知り抜いている。私の苦しみも、知ってくれているのだ。それは正確には錯覚なのだが、この種の苦しみを知っていることには変わりないだろう。そうでなければこのような話が書けるだろうか。心情を、その苦しみを、ここまで描けるものだろうか。描ける人もいるかも知れない。でも、それでも…

そんなことを、読んでいる間に考えずにはいられなかった。この作品を生み出した萩本さんに会って、感謝を伝えたかった。あなたの作品は少なくとも私という人間を一人救ってくれたと。横井さんを訪ねた斉藤さんのように。幸いにもオフ会という機会があって、私の思いは遂げられた。自宅に突撃する必要はなかった。

私にとってのアスペル・カノジョは、斉藤さんにとっての内外開拓のような作品だと言っても良いかもしれない。彼女のように、ずっと毎日読み返すというのは流石にできないが、米子編くらいまでは毎日のように読み返していた。今は連載版を追う形で読み直している。連載版も素晴らしい。原作の良さを活かしつつ、森田先生ならではの味がある。翻訳作品の訳者が変われば作品の味が変わるように、指揮者が変わればオーケストラが奏でる音楽の味が変わるように、森田先生によるアスペル・カノジョには、原作とはまた違う良さがある。最初こそキャラクターデザインや表情に違和感を覚えることもあったが、それは慣れていないだけのことであって、いい表情をしているのだ。原作への強すぎる思いは時に目を曇らせる。私には見えてなかった。見えるようになってよかったと思う。素晴らしい連載版を描いてくれている森田先生にも感謝したい。

 

先生といえば萩本さんも先生なのだけど、何だか恥ずかしくて呼べないし、かえって距離ができてしまう気がして、敬意を込めたいという思いとぶつかりつつも、やっぱり萩本さんの方が落ち着く。萩本さん、先生って呼んでないですけど、この作品を世に出してくれたこと、私のクソ長くてまとまりのない感想というか解釈みたいな文章をしっかり読んで返信してくれたこと、作品にまつわる様々な話を聞かせてくれたこと、私の話を聞いてくれたこと、私を関わってくれたこと、本当にありがとう。感想書く書く言ってなかなか書けなくてごめんなさい。完璧を目指しすぎました。もう全部消して頭に浮かんだことをひたすら羅列することにしました。結局クソ長くてまとまりのない感想なんだか自分語りなんだかよくわからないものになってしまった…

 

細かいところを言えばこの話が好きとかこの場面が凄く心に響いたとかあるのだけれど、それを始めるとまた長くなるし終わらない。読んでない人には読んでもらえばわかるし、読んでる人はわかってる。それでいいのだ。語り合う機会があれば語ればいいし、こういう話は語り合ったほうが楽しい。

だから、ここには自分が言いたいことを書いた。話がそれまくっているが、それも含めて言いたいことなのだと思うことにする。

生きることが苦しい人も、そうでない人も、興味が湧いたら読んでほしいし、読みたくなかったら読まなくても良い。

私はこの作品が、生きる苦しみを抱えている人の救いになると信じているが、必ずしもそうなるとは限らないということも知っている。だが、それでも、と願わずにはいられないことも確かなのだ。

 

私はこの作品に出会えてよかった。

あなたにとってもそうであれば嬉しい。