神林長平「だれの息子でもない」 再読感想

 

 「だれの息子でもない」を初めて読んだとき、私にとって「ぼく」と「親父」のやり取りは一種のギャグパートのようなもので、心を引き付けられたのは、

「人間が整備したインフラは最早自然の一部であり、動物たちが自らの生存のためにそれを利用しないはずがない」

というアイディアだった。


 このアイディア自体は、例えば人が整備した山道を動物たちが利用するというような、ごくありふれたもののように思えるが、利用されるのがネットインフラだというのだから驚きだ。さすがは日本SF界の金字塔、常に最前線でSFを書き続けてきた作家、神林長平はまさに日本を代表する最高のSF作家だ、と興奮せずにはいられなかった。

 

 しかし、あれほど憎んだ父を亡くした後で発売された文庫版を再読したとき、私のこの作品への印象は一変してしまった。

 

 私にとって、「だれの息子でもない」という作品は、「近未来にあり得るかもしれないネット世界と、動物たちが将来的にネットインフラを生存のために利用し始めたり、正体不明のファントムが発生する可能性を、父と子のやり取りを通じながら描く物語」だったのだが、再読後は「父と子の和解の物語」というものへすっかり変わってしまったのだ。

 

 物語の冒頭、主人公がいかに父親に対して憎しみを抱いていたのかが語られるのだが、これはもうほとんど自分そのものだ、と、初めて気が付いた思いで読んでいた。
 以下は、私の父に対する思いを一部文章にしたものだ。

 

私の父は出奔まではしていないが、我こそは法律なり、という人物で、おれは絶対に正しいという態度を崩すことはなかった。
仕事から帰ってきては酒を飲み、休日になれば酒を飲み、人生そのものが酒である、というような男だった。
それだけならただのアル中なのだが、酒癖が悪いのが厄介だった。些細なことで腹を立てるのだ。
その度に私は我慢を強いられた。ひたすら顔色を窺い、父のご機嫌取りをしていた。
家庭を壊したくないと、子供心に必死だったのをよく覚えている。
常に「理不尽だ」という思いを胸に抱えていて、それは父が脳出血で倒れるまで続いた。

 

 これと似たような恨み言が、作中にも度々登場する。
 ただ、私と物語の主人公の「ぼく」と決定的に違ったのが、私の父親に対する印象が、直接父親に触れることで形成されたのに対し、「ぼく」の父親像は、幼いころのわずかな記憶と、親類たちから聞かされた父親への罵詈雑言によって形成されたという点だ。

 

 私の父への印象は、リアルタイムに父に触れることで形成されたものだから、私の主観に基づいている。
 しかし、「ぼく」の父への印象は、幼いころのわずかな主観、自分と母を置いて出奔した父への恨みと、それ以外の大部分は他人からの印象によって形成されているのだ。

 つまり、「ぼく」の父に対する恨み、思いというのは、家族を見捨てた父への恨みを核として、そこに親類からの影響が肉付けされたものだと言える。

 

 人間は、成長の過程で己の価値観を形成していく。日々の体験や学習などから変容していく価値観の中で、人は他人に対する評価も変容させていく。今まで気が付かなかったけど、自分も同じことをしてみたら物凄く大変だった、実はあいつは大したヤツだったのだ、とか、今まで嫌なヤツだと思っていたけど、話をしてみたら実はそうでもなかった、とか。そういったことを、自分に関わる全ての人間に対してするわけで、親もまた例外ではない。
 
 人が人に対する評価を決定するのは、他人からどう評価されているか、という風評もあるが、一番は直接的な会話だ。相手の価値観や性格といったものを、会話を通じて探り出していき、人物像を形成して、自分の価値観をもとにして評価していく。
 親に対しても、これは変わらない。日々の会話、他愛ないおしゃべり、進路の希望と要望の対立による喧嘩など。様々なコミュニケーションを通じて、親をいう人間を評価していくことになる。

 ところが、「ぼく」は父親に対してその段階を踏むことなく、幼いころの印象と、周囲の人間から受ける印象によって評価しているのだ。つまり、対話を繰り返し、自分自身の価値観に基づいて父親の評価をする、ということをしてこなかった、ということだ。

 

 ここで、「だれの息子でもない」のあらすじに触れよう。単純に説明するならこうだ。

 

 「ぼく」の仕事は故人となった市民のネットアバターを消去することだ。そんな「ぼく」の前に、死んだはずの親父のアバター=ネットファントムが現れる。「ぼく」は親父のネットファントムとの会話を通じ、親父に対する認識を改めていく。そして親父のファントムが消えたとき、「ぼく」は悟る。人生とは、記憶だ。記憶した人間の人生の中でアクティブに変容しつつ、記憶として生きるのだ、と。

 

 「ぼく」は物語の中で、何度も父親のアバターと会話を重ねることになる。その中で、彼の父親に対する評価は変わっていき、最終的には、物語序盤で語られる、ただ恨めしいだけの父親像は変容するのだ。これは正しく、会話を通じて、「ぼく」自身の価値観で父親という人間を評価した結果だ。そして、「ぼく」の父親は実はこんな人間だったのだ、と気が付いたとき、「人生とは、記憶だ」という悟りが降りてくる訳である。

 

 「ぼく」は、本来ならば不可能であったはずの、死んでしまった父親との会話を通じて、父親像を自分自身の手で再構築することによって、父親との和解を手に入れたのだ。和解というよりも、理解といった方が正しいかもしれない。
 それは、自分の父親を、一人の人間として認める、という行為に他ならない。だからこそ、物語の終わりに、それまでのようにクソ親父、ではなく、「そうだろう、親父(とうさん)」と同意を求めたのだ。

 

 この物語の構造を理解したとき、今まではアイディアを書くために用意した手段だと思っていた父と子の対話が、実は物語の主要部分である、ということに気が付いた。この物語の骨子にあるのは、父と子の対話と、そして和解なのだ。

 

 私自身の話に戻そう。父が死んだとき、私の心に去来した思いは、「やっと解放された」というものだった。私は父親から受けた精神的な虐待に深い恨みを持っており、それは父が死ぬまで変わることはなかった。「だれの息子でもない」のソフトカバー版は父が死ぬ前に読んでいたが、それで父への思いが変わることは無かった。
 父の死後、私は社会で生きていくことの難しさ、辛さを改めて痛感し、精神的に大変疲弊していた。元来集団に馴染むのが苦手で、なんとかグループに所属できたとしても、心理的にいつも孤立していた私には、会社の部族的なコミュニティに参加することは、苦痛以外の何物でもなかった。

 

 そんな時期に、「だれの息子でもない」の文庫版は発売された。ソフトカバー、文庫、電子書籍の三媒体での神林作品コンプリートを目指している私にとっては、買わないという選択肢はない。すぐに買って、親父も死んだことだしいい機会だ、と思って、再読したのだ。
 そして読み終えたとき、私の心に湧き出てきた思いは、「私も親父とこんな会話を交わしたかった。お互いを認め合って、価値観をさらけ出し、それをぶつけあいたかった。たまには酒でも飲みながら、会社での愚痴を聞いてもらって、親父がおれくらいのときにはどうだったんだ、とか、そういう話をしたかった」というものだった。


 部署でのバーベキューイベントに溶け込めず、飲み会でも会話に混じることも出来ず、普段の仕事でも何かと孤立しがちな私が、これは社会でやっていくのは難しいかもしれない、と弱気になったとき、その思いが胸の内に蘇ってきて、帰りの車の中で嗚咽を漏らしてしまった。

 いま、親父が生きていてくれたら、どんなに良かっただろう。健康で生きていてくれたなら、私の社会への挫折の思いを、親父は横で聞きながら、何かアドバイスしてくれただろうか。それは、私の虫のいい思いに過ぎないのかもしれない。それでも、私自身の素直な思いだった。


 思い返してみれば、父は父なりに頑張っていて、確かに酒癖はひどく、それによる精神的虐待は許せるものではなかったが、スキーやキャンプに連れて行ってもらったり、面白い話を聞かせてもらったり、キャッチボールやトラックボールで遊んでくれたり、彼は彼なりに子供を愛していた。愛情表現の仕方は間違っていることも多かったが、父は決して私たち(私には妹がいる)のことを嫌っていたわけではなかったのだ。

 

 気が付くのが遅すぎた、と私は思った。だが、気が付くことができて良かった、とも思った。そうでなければ、私は自分が死ぬまで父親を恨み続けただろう。

 一応、父が死ぬ前にそれまでの思いをぶちまけて、謝罪の言葉を引き出し、それで許したことにしていたが、その時の父は脳出血の影響で言語野を破壊されており、多少の会話は可能でも、脳出血前のような明快な会話は不可能な状態だった。認識能力も小学生並みのレベルまで落ち込んでおり、とてもではないが、「だれの息子でもない」のような親子の会話など、出来るはずもなかった。だから私の恨みもそれで消すことはできず、きっと胸の内に抱えたまま死んでいくのだろう、という予感があった。

 

 しかし、その予感は、「だれの息子でもない」を再読したことによって、見事に打ち砕かれた。確かに、思い出せば腹は立つことはまだまだたくさんある。だが、それでも父は父なりに懸命に生きていたに違いないのだ。そのことに気が付いたとき、私の父への恨みはきれいに消えてなくなっていた。

 

 私はこれまで、神林長平と言えば火星三部作、これに並ぶのは雪風シリーズで、他ももちろん面白いのだけれど(敵は海賊シリーズで神林先生が見せるユーモアは最高だ)、自分にとっての一番はこれだ!と思っていた。火星三部作雪風シリーズから受けた影響は計り知れなかった(そんなことを言ったら影響を受けなかった神林作品なんてひとつも無いのだが)。私の言語能力を飛躍的に高め(元が低すぎたのでそれでも低いのだが)、思考能力を与え、自分自身の価値観を形成する大きなきっかけになったのが神林長平作品だ。彼の作品を読むまでの私は、いわゆるアダルトチルドレンで、親や周囲の顔色ばかり伺ってきたために、自分というものがなかった。だが、神林作品との出会いが、私にアイデンティティを与えることになった。彼の作品はどれも大切だが、前述の火星三部作雪風シリーズはやはり特別な作品だ。


 そして、神林作品の中でも私にとって特別な作品のひとつに、「だれの息子でもない」は名前を連ねることになった。それだけ、この作品が私に与えた衝撃と影響は大きかったのである。この作品を、父の死後のタイミングで読み直さなければ、私の父への思いは生涯変わることは無かっただろうから。

 

 この作品を世に生み出してくれた神林先生への感謝は計り知れない。幸いなことに、「フォマルハウトの三つの燭台」発売記念スペシャトークイベントのサイン会で、先生に直接感謝の思いを伝えることができた。握手までしてもらった。先生の手は、父のように、とても温かかった。

 

 

 

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